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自分史

jibun

幼少期

どんな子供だった?

1981年 3人兄弟の長男として生まれる。

決して裕福な家庭はなかった。

風呂はなし、2階のみの1DKで親戚の家と繋がっている長屋のような家だった。
トイレは1階の倉庫の奥にあり、夜は真っ暗闇の中、手探りでトイレまで歩かないといけない毎晩肝試しのようなトイレだった。
今になって思うが、自分の子供たちはどんなご褒美があっても、絶対にいけないだろうというトイレだった。少年の俺よく頑張った。

だが、いい面もあった。
隣には歳の近い従兄弟の3人兄弟がいて、家から直通だったので大人になるまで、「友達以上兄弟未満」のような同級生とはまた違う、親しい関係を築くことができた。

主なエピソード
  • 保育園では母親と離れるのが嫌でいつも泣いていた。
    幼稚園のノートを見ると「年長になるとグッと涙を堪えれるようになった」と書いていたので、少なくとも年中までは涙を流して泣いていたようだ。
  • いつも特定の3人組と遊んでいて、広く交友関係を持つタイプではなかった。年長になるにつれ、その傾向は薄くなり、少し幅は広がったようだった。
  • ブロックが大好きで、いつも何かを作っていた。
    決して種類も多くないブロックで、飛行機や船などのカッコイイ乗り物を工夫して作るのが楽しかった。
  • 保育園では砂場でいかに硬く、ピカピカの泥団子を作れるかひたすら追及していた。
  • シャイボーイだった。

友達と追いかけっこというよりは、何かを作るのが好きだった。
多くのおもちゃを買ってもらえた訳ではないので、限られた材料・資源で工夫して作りたいものを形にしたり追及したりするのが楽しかった。

これは今でもそうだ。
ゲームも趣味も「制限なし」よりも「このアイテムは使用禁止」や「お気に入りのこの道具だけで上達を目指す」みたいな縛りがある方が楽しめるし、継続できる

書きながら思い出したが、幼少期に強く印象に残っている風景と感情が1つある.

家のすぐ近くに建物が取り壊された後の空き地があった。大人が見れば大した広さではないが、小さい頃の自分にとっては広大な荒野くらいの感覚だった。

取り壊した後の何かの部品や、おそらく誰かが捨てたであろうゴミのようなものがとにかく雑多に散らばっていて、土の中から何か分からない部品を掘り出したり、元は1つのものだったであろう部品同士を仕分けしたりするのを朝から暗くなるまでやっていた。

いつの間にか、一緒に空き地にいたはずの友達や近所の子供達も飽きてどこかへ行っても、1人で黙々とその作業に没頭した。

知らない間に空が赤くなり始め、広大な荒野の中、夕日に照らされたガラクタがキラキラ光って、その真ん中でポツンと立って自分が作業していたのがほんの一部でしかないと分かった時、強烈にワクワクし、明日のことを考えると興奮した。
その光景と感情が強く印象に残っていることだ。

多分、こんな楽しい作業が明日やっても、明後日やってもまだまだ終わらないくらいあるというのがワクワクしたのだろうと思うが、その後どれだけ続けたのか、どうなったのかはさっぱり覚えていない。

現在の自分の価値観に影響を与えていると思うこと

  • 複雑なものをシンプルにする。
    動詞でいうと削ぎ落とす、厳選する、美しく整えるみたいな作業が好き
  • 楽しいやることがストックされている状況がたまらなく好き

牛乳と俺

自分の中の一番古い記憶は保育園の牛乳だ。

おやつの時間に必ず牛乳が出るのだが、とにかく牛乳の味が嫌いだったのでいつも最後まで残って泣いていたのを記憶している。

保育園が厳しいのではなく、好き嫌いはダメ。残さず全てを食べ終わるまで許されないような時代だったように思う。

当然、小学校に上がっても給食の牛乳は6年間続き、牛乳には生まれてから10年以上苦しめられたことになる。

どうでもいい話のようだが牛乳を語らずには進めない。
牛乳が人生最初の壁だった。

小学校は給食→全員の机を後ろに下げて掃除→1番長い休み時間→午後の授業という流れだった。牛乳が飲めないのでクラスで1人だけ、給食セットを机に広げたまま机を下げられ、まわりで掃除が行われている中、涙目でなんとか牛乳を飲みきり、空になった瓶を校庭で遊んでいる同級生を横目に見ながら給食室まで持っていく光景を今でも覚えている。

記憶はないが生まれて保育園に行くまでは乳を飲んで育ったはずなのになぜこの味が嫌いなのか?と何度も考えたが、好きになる事はなかった。

ただ、負けっぱなしは嫌だという気持ちもあって「キンキンに冷やした牛乳を極限に喉が渇いた状態で風呂上がりに飲む」とか「コーヒー牛乳の徐々に牛乳を多めにする」とか年齢を経るごとに色々試したが好きになれる事はなかった。

今でも、もちろん牛乳は飲めない。100円のアイスや、安っいソフトクリームは大好きだが、北海道○○アイスやソフトクリーム、高級プリンは大体食べれない。

チーズもトロけてるピザは食べれる、固形チーズは絶対無理。ピザポテトはすごく美味しい。
とよく分からない感じに仕上がってしまった。

こういう経験も関係しているのか、食べ物に関してもそれ以外も自分の子供達には嫌いなものを強制することはないし、無理なものは無理だし、そんな事に労力を掛けるなら好きな事した方がいいという価値観に繋がっているのかもしれない。

現在の自分の価値観に影響を与えていると思うこと

  • これは向いていない・苦手(思い込みを含む)と思う事はバッサリ切り捨てる。

小学校

学校に行きたくない病

小学校がとにかく嫌だった。

父親は厳しかったので、簡単には休ませてはくれなかった。
熱があるか、ゲロを吐いたりすると母親が休ませてくれたので、2年生になる頃には自在にゲロを操れたり、度重なる試行錯誤の末、体温計と布団との摩擦で絶妙な微熱を自在に叩き出す事ができるようになっていた。

ただ、さすがに学校に行きたくないから吐いたりするというのはバレていたようで、フルで休む事はほとんどなく、途中からでも学校には行かされていた。

この病の原因は今になって分析すると大きく3つあったと思う。

  1. 牛乳
  2. 母親の愛情
  3. 新しい環境への適応

①はさておき、②、③は似たようなものかもしれない。
小さい家でひしめき合って暮らしていたので、いつも両親(特に母親)は近くにいて、たくさん愛情を注いでもらった。その分、離れるのが寂しかった。

争いごとがで苦手で、人の気持ちに敏感で、繊細で、人前では長男気質で忍耐強い自分には学校という世界は消耗が激しかった。イジメられていた訳でもなく、人間関係に悩んでいた訳でもなく、シンプルに疲れる、家に戻りたいという感覚だった。

ただ、段々慣れていく感覚はあり、その時間が人よりも余計に掛かる子供だったのかもしれない。

3年生になる頃にはこの「学校に行きたくない病」はすっかり治った。

これ以降、中学・高校・社会人とこの病気が再発することはなかった。
「新しい環境に飛び込むのは嫌だし苦手だけど、まあなんとかなるか」みたいな感覚を持てた気がする。

休むという安易な選択をせずに、根気強く途中からでも学校に行かせ続けた両親には感謝しかない。間違いなくこの積み重ねのお陰である。


あと、中学からは牛乳はなかった。これもデカい。デカすぎた。

シャイボーイ

3年生になってからはガラッと学校が楽しくなり出した。

友達関係は広がってきたが、恥ずかしがり屋な性格は全然変わらずで、授業中に挙手する事ができない子供だった。

小学生なのでみんな積極的に手を挙げている中、「自分がやらなくてもこんなに答えたい人がいるのだから」と少し一歩引いてみているような感じだった。
ただ、難しい問題で先生が「これ分かる人、誰かいないの?」とシーンとなる状況で「え?俺分かるけど」という状況になった時、途端に緊張で背中から汗がダラダラ流れていた。

結局、黙ったまま、それで手を挙げることはほとんどなかったように記憶している。
正解を聞いた時、多分10回中9回は自分の思っていた答えは合っていた。
9回の「おお!すごい!という称賛」より、1回の「手を挙げといてみんなの前で間違える」という恥ずかしさをなんとか回避する方を選択していたのである。


とはいえ、後半の3年間の学校生活は前半に比べると圧倒的に楽しかったという記憶だ。

主なエピソード
  • 小学校3年の時に引っ越して、風呂なしの家から、デカい新築持ち家にランクアップして、友達を呼べるようになったのが嬉しかった。
  • 小学校4年,5年でクラス投票で「優しさナンバーワン」という称号に2年連続で選ばれた。推薦された人の名前が黒板に書かれて,全員で投票して発表されるという今では絶対あり得ないシステムだった。
    投票数が少なかった人は嫌な気持ちになっただろう。他には足が早いナンバーワンとかそういうのをみんなで話し合わせるが好きな担任だった。
  • 小学校6年では、学級代表に推薦・投票で選ばれた。
    運動会の宣誓や前校朝礼で何かを発表したり、シャイボーイの自分には試練だった。

目立つ事もなく、控え目な性格だったが、割と誰とでも分け隔てなく、接する方だった。
休み時間にドッジボールをクラスの中心的なグループとも遊んだし、教室でオリジナルの遊びをしていた少数グループにも興味を持って混ぜてもらったりしていた。

当時イジメられている女子が2人いたが、その子にも消しゴムを貸したり、教科書を見せたり自分は普通に接していた。小学生なので「あいつと遊んだから菌がうつった!」みたいな事を言ってくるやつも何人もいたが、そこには謎の芯の強さと「俺は間違っていない」という自信のようなものがあった。

それがどこから生まれたものかは分からないが、小さい時から相手の立場になったり、気持ちを汲み取ったりする共感性はすごく高かったように思える。疲れる事も多かったが。

そんな事もあって、優しさナンバーワンや学級代表に推薦され、押し上げられた。
①少数のイジメている層、②大多数の傍観者の層、③2人のイジメられている人と大きく3つに分けると、②のほとんどと③の全員が自分に投票した。

恥ずかしがりで、あがり症の自分に取っては憂鬱になる役目もあったが、同じくらい自分の事を見てくれる人がいて、肯定され誇らしい気持ちがあったのだと思う。
これはしっかりと役目を果たすことができた。

現在の自分の価値観に影響を与えていると思うこと

  • これは向いていない・苦手(思い込みを含む)と思う事はバッサリ切り捨てる。

中学校から受験

小学校の時の成績は中の上くらいだったと思う。
国語や図工だけはずっと良く、算数と体育は苦手だった。

地元の中学校は不良全盛期で、大阪の中でもかなり悪い部類とされており、同じ小学校の60人中30人以上が中学校受験をするという特殊な年だった。

主なエピソード
  • 5年生からは超進学塾に入って勉強漬け
    土日は弁当を2つ持っていき、早朝特訓、通常授業、居残り特訓と朝から晩まで塾。「常在戦場」という黄色いハチマキを巻かされ全員で「絶対合格するぞー!」と朝から掛け声をするやばい宗教みたいな環境だった。
  • 仲の良い友達なども何人も同じ塾に通っており、クラスは成績ランクに応じたクラス、模試の塾内順位、全国順位も定期的に晒され、バリバリの競争環境にう放り込まれた。
  • 習い事は塾とスイミングスクールだけだったが、スイミングは本当に嫌いだった。夏休みの時どうしても嫌で、家近くで隠れて行ったフリをしてサボったことが一度あった。のちにそれがバレて父親が烈火の如く怒り、スーパーファミコンと大事にしていたおもちゃを2階の窓から投げ捨てられた。
    投げ捨てられたスーファミはカバーは全て取れて基盤が剥き出しになり、原型を辛うじて留めているスーファミ試作初号機みたいな見た目になった。
    スイッチも壊れていたので、起動の仕方も特殊で、友達の間ではちょっとした名物みたいになっていた。

関西大学第一中学校というエスカレーター式の中学校を第一志望にした。
そしてあんなにも勉強した結果にも関わらず、模試ではA判定だった第一志望は見事に不合格となった。

これが初めて味わった挫折というものかもしれない。
ただ、すごく落ち込んだかと言われればそうでもなかった。

父親と見に行った合格発表で自分の数字がなかった時、ショックではあったが、帰りに美味しい洋食屋さんで大盛りのハンバーグとエビフライを食べたのを覚えている。

結果が悔しかったというよりも、両親の期待に応えれられなかった。合格発表に美味しいご飯に連れてきてもらう気遣いをさせてしまった事が情けなかった。そんな感情だった。

考えていたこと
  • 第一志望に関大一中を選んだ理由は従兄弟が行っていたからと、今頑張れば大学まで勉強しなくてもいいから。
  • 中学受験をする理由は周りのみんなが塾に行き出したから、地元の中学校が悪かったから。
  • スイミングに行ったのは、周りのみんなが習い始めたから、泳げた方が海や川に行った時楽しいから。

当時はこう思っていたと記憶している。
間違いなくこの理由で目標に向かっていたのだが、心から願っていたわけではなかったし、後付けでこんな感じで頑張ろうみたいに思ったのだろう。
今、言語化するなら、両親の期待・意向、周りの環境に自分の行動をフィットさせる為にこれを作り出したというのが一番当てはまるだろう。

理由の前半の周囲の同調圧力みたいなものは母親が言っていた事、後半のそれっぽい理由はよく父親が自分に言っていたことだ。そこに自分の意思や、やりたい事はほとんど介在していなかったと思う。

突然乗せられて走り出したトロッコで、周りに負けないようにとりあえずゴールを目指して揺られていた、そんな感覚だった。

かと言って、当時の自分のやりたい事はなんだった?と問われれば、ゲームをもっとたくさんしたいとか、欲しいおもちゃが買いたいとか、間違いなくそんなものだったと思う。

合格した友達とそうでなかった自分にこの目標に対する姿勢にどれだけの違いがあったのか分からないし、不合格になった未来と合格だった未来、どちらが良かったのか知る方法はない。

水泳を習ったのはよかったと思うし、塾に行かせてくれたのもいい経験だったと思うし結果的には感謝している。

ただ、自分が子育てする側に回った時、こうならないように気をつけている自分はいる。
「何をしている時が楽しい」とか「やりたければやってみればいい」みたい事をよく言う。
結局正解は分からないから、好きなことして楽しい時間多い方がいい、そんな感じだ。

生まれ育った街について

生まれ育った環境についてもここで触れたい。

自分の住んでいた大阪市生野区は今では大阪コリアタウンというキムチや韓国料理、K-POP好きな人が訪れる観光名所だ。平日、休日問わず、たくさんの人が訪れる人気スポットだ。

韓流ブーム(ヨン様)やK-POPが流行るまではただの地元の商店街だった。

そういう街なので、韓国人が多い。
自分の父親も日本生まれ日本育ちだが、韓国籍である。自分は母親が日本籍のハーフなので選択権があり、自分も含め3兄弟は今日本籍として日本で生活している。

ただ、ハーフは稀で小学校の友達の半分弱は韓国籍で、長年遊んでいた父方の従兄弟たちも
必然的に韓国籍だった。

そんな環境で小学校まで過ごしたので、自分はそれが当たり前だったし、道徳の授業で差別問題みたいなものを聞いて初めてそういうものがあるんだと知ったくらいだった。

小学校6年くらいの時に父親と歩きながら、大人になったら籍を選べるみたいな会話になった事があった。軽い感じで

「じゃあ日本籍かな、韓国籍は差別されるし」と言った。

その時父親は目を見開いてこっちを見て、何もなかったかのように前を向いて歩き出した。
別にそんなことは思っていなかったし、授業で習ったことを披露するノリで言った何気ない一言が強くて怖いあの父親を傷つけてしまったことを子供ながらに一瞬で理解した。

大阪市内という土地柄もあったのか、中学・高校も大学、就職してからも、外国人の同僚・友達はいて特に意識するようなことは出来事はなかった。

「結婚」という人生の大イベントがあるまで、そのことは忘れてさえもいた。

中学・高校時代

流れていくだけの中学

第一志望の中学に入れなったが、2つ受けていた滑り止めの中学は合格することができた。

偏差値は第一志望よりも落ちたが、高倍率だった第2志望の2次試験を突破する事で、無駄な受験勉強をではなかったと自分を含め無理やり納得することはできた気がする。

中高一貫の学校だったので、中学3年間は全く勉強しなかった。
しんどい受験勉強の時に「今頑張れば、もう勉強しなくてもいい」という親の励ましを完全い間に受けていたので、もう勉強する気にはなれなかった。

  • 中学の友達と海釣り、川釣り、池釣りなんでもした。
    釣れなくても、自然の中でのんびりしたりするのが楽しかった。
  • 当時ブームだったブラックバス釣りにのめり込む、釣るのは難しかったが、ルアーの動かし方や道具の組み合わせ、戦略性・ゲーム性のある釣りは衝撃だった。釣りに行く前の釣具屋で道具を選んでいる時や、事前準備をしている前日がワクワクして眠れない程だった。道具のメンテナンスでさえ楽しかった
  • 従兄弟がバイクや車の免許を持っていたので、友達よりも従兄弟と釣りに行くこと事が増えた。同級生より新鮮な話題・知識やお金も持っているので釣りの幅も広がり、友達よりも従兄弟とほぼ毎日のように遊んでいた。

中学時代の記憶が1番少ないかもしれない

クラブ活動もしておらず、男子校だったので本当に授業を消化して、家に帰って趣味の時間!みたいな繰り返しだったのだと思う。

試験=ゲーム

中学校で釣りばかりしていたので、中の上くらいだった成績はみるみるうちに下がっていき、中学3年には下から数えて10番くらいの成績になっていた。

そもそも試験勉強も夏休みの宿題もほとんどやっていなかった。
厳しい私学だったので不良みたいな生徒はおらず、その中でも真面目そうな自分なのに、完全に真面目の皮を被ったズボラだった。

同じように釣りに行っていたはずの友達がテストの成績が良かった時に焦る気持ちはあったが、中高一貫なのでとりあえず高校には上がれるという大前提がなんとか自分を支えていた。

高校に行けばどうせ受験勉強はする。
それで私立文系コースに行けば、数学と世界史も必要なく、無駄な勉強だ。
高2からぼちぼちやればいいという独自の内に秘めた戦略?を拠り所にしていた。

戦略といえば聞こえはいいが、ギリギリまで追い込まれないと、動けない性格が発現していた。

高校1年の1学期についに担任の先生から3者面談で親の前で「このままだとやばいですよ」と正面から言われた。
担任の先生は上辺は真面目に授業を受けている自分のどこを見てそう思ったのかは未だに分からないが、「やればできるはずなのに、そもそも努力すらしていない」それが一番ダメだと言っわれた。努力していない全くその通りだった。

その後、高1後半くらいから現代文や古典、日本史、英語などの文系科目は上がり始め、高2・高3では文系だけは1位も取ることあり、トップ3以内を死守できるくらいにはなった。

それでも新しい知識が身について楽しい感覚や、分からない事が分かる楽しさみたいなものを一切なかった。授業もあんまり聞いてなかった。

完全自己流で、テスト範囲の教科書・問題週を全て暗記する2週間前くらいから予定表を作っって、重要そうな箇所を隠し、ひたすら暗記する。テスト当日は朝4時に起きて、最後の確認で2周する。一夜漬けならぬ「2週間漬け」それだけだった。

受験勉強は好きではなかったが、戦略を立てて予定を作って、それなりに結果が出るみたいなサイクルは楽しかった。

競争して順位を上げていくよりも、一度上がった順位を下げたくないという、変化しようとする力よりも、維持する力が強いということを体感した出来事でもあったと思う。

「親の期待」からの脱却


そして「裏」第一志望の関西大学に合格することができた。
これで、小学校時代のリベンジみたいなものを果たせた気が少しした。

なぜ「裏」かと言うと、父親からは「国公立大学に行って、公務員になれ」ということを耳が痛くなるくらい言われていた。
父親は自営業だったので子供には安定した職種にというのも少しあっただろうが、学費の問題が大きかったとは思う。
自分が私学に行けば、後2人の兄弟もいる。今後しんどくなることも、長男である自分は家の全体のことも未来のことも当たり前のように考えていた。ナメるなよと言う気持ちだった。
私学に受かっても、奨学金とバイトで家計には迷惑を掛けないと言うことを自分の中で決めていた。

国公立コースには行かないと決めた時も、母親には言ったが、父親には言わなかった。
父親が国公立は行けそうか?としつこく聞いてきた時も、「ああ順調」と適当に流していた。
そして願書を提出という時に国公立ではなくて、関大に願書を出すと父親に言った。

怒ることはなかったが、それでもいいから、センター試験も受けて、国公立の願書だけは出すという約束だけはしてくれということだった。センター試験対策もしていないし、理系科目は全く勉強していないと説明したが、父親はそこだけは譲らなかった。

結果的にはセンター試験もブッチして国公立の試験も受けなかった。願書は出したので約束は破っていないという論法だった。
全ての試験が終わった後に、そのことは父親には報告した。驚いていたが、一応関大には合格したのでそこまで言われることはなかったと記憶している。

こうして自分の受験は終わった。

40代の今になって思う事だが、「目標」はしんどくて、長くて、達成しても一瞬嬉しいだけという感覚が自分の中に根深くこびりついているのを自覚している。

現在の自分の価値観に影響を与えていると思うこと

  • 目標は苦痛。
    「目標」はしんどくて、長くて、達成しても一瞬嬉しいだけという感覚が自分の中に根深く居座っているのを感じる。
  • 試験対策の時のように自分で戦略・計画を立てて結果を追い求めるのは楽しかったというパターンもあるのでこれを増やして行きたい

青春コンプレックス

中高一貫で男子校で地味でサエなかった自分は青春に対するコンプレックスというより「憧れ」のようなものがある。

王道みたいな部活や恋愛を一切通ることもない、思春期だった。

振り返っていて思ったが、中学高校と帰宅部だったのは本当に自分だけくらいかもしれない。

帰って何をしていたのか覚えていないし、きっと大したことはしていないが、「1人の時間」が必要、重要だった。学生時代を通してそうだが、群れるよりは1人の時間の方が好きという特性だった。友達も4人で遊ぶよりは3人、3人よりもできれば2人で遊ぶ方が好きなタイプだ。

今もその傾向は変わっていないかもしれない。
本当に気心が知れている友達であれば、3人でも4人でも何も思わないが、そこに友達の友達みたいなのが増えると、表面上はうまくやれるが、「あれ?なんか帰りたくなってきた」みたいな感じだ。

だから、スラムダンクやアオアシ、ハイキュー、弱虫ペダルなど競技どうこうではなく、青春・仲間みたいな作品に感情を揺さぶられる。下手な恋愛少女漫画も好きだったりする。

とはいえ、これを今どうこうする事もできないし、孤独耐性が高いという長所として活かすしかないとは思う。

大学時代

乗り遅れたキャンパスライフ

大学時代をひと言で表すと「完全に乗り遅れた。。」

「大学に受かればもう生涯勉強はしなくていい」完全に思っていたので、広い講義室で○年○組という概念がない講義=休んでもOK=大学は全部夏休みという拡大解釈により完全に乗り遅れる。

気がついた時には仲良しグループが形成され、6年間男子校だったので女子を話そうとすると唇がプルプルと震え、頭に描いていたキャンパスライフは早々に打ち砕かれパチンコ・バイトに明け暮れる。

ずっと仲の良かった従兄弟がパチンコにハマっていたこともあり、典型的なビギナーズラックを経てパチンコの世界にどハマりする。
勝ったり負けたりだが、お金が続く訳もないので、バイトもやるようになり、自然と授業よりもバイトに掛ける時間が増えていった。

色々なバイトをしたが、某牛丼チェーン店のバイトが大学生活前半の多くを占めていった。接客業は未経験だったので、接客は得意ではなかったが、バックの作業は楽しかった。

時給が良かったので、主に深夜帯のシフトに入っていた。
バイトを始めた時からだが、仕事においては時間内を適当に過ごすということができない性格だった。誰に言われる訳でもなく、「生産性命」の働き方だった。

深夜帯でしかできない、大掛かりな作業や清掃はできることは最大限やる。次の時間帯の引き継ぎ時にやれるだけの事先の先までをやり尽くしす。気づいたことや改善点を引き継ぎノートにびっしり書く。

それを続けていると自然と、引き継ぎ時の他のバイトからも感謝される。店長からも仕事がデキる奴と認定され、評価も上がっていった。
多分、感謝されたり、評価されるのがモチベーションの源泉だった。

深夜帯の古株の少しやる気のないバイトの先輩達よりも上の役職になり、自信がついて、苦手だった接客も仕事への自信がそのまま出て、うまくできるようになっていった。

仕事での自信がついた事で、バイトの女子とも少し話せるようなっていき、プルプル震えていた頃よりはかなりマシになっていった。

これほど情熱を注いだバイトは呆気なく終わる。まさかのクビだった。
バイトも2年ほど 

大学を留年して5年で卒業



就職は決まったが、5年目に履修できる128単位中128単位を取得しなければ
内定は取り消し&6年目の留年は確定し人生終了!というギリギリの危機を脱し、就職人気ランキングにも載る大手旅行会社の内定という大逆転でホッと胸を撫で下ろした。

ちなみに学費は全額奨学金で、親に迷惑を掛けたくない、心配を掛けたくないという気持ちはすごくあった。

留年して恥ずかしい思いをさせた分、親を安心させたいという一心で就職活動だけは必死に頑張れた気がする。

暗黒期

第一志望の旅行会社に入社

就職支援の人材コーディネーターに転職

食品メーカーのルート営業に転職

転換期

予備校の企画部

現在 自営業

まとめ(特性・内面)

  • コンフォートゾーンから出たがらない。
    が、出ることによって得られるものもあり、なんとかなる事も頭では分かっている。しかも、現状維持している事に焦燥感があり、理想と現実の自分とのギャップで苦しむ事もある。
    小さいことから変えることでできる可能性が高まる。
  • 複雑なものをシンプルにする。単語というと削ぎ落とす、厳選する、美しく整えるみたいな作業が好き
    誰でも簡単にできる、先が見え過ぎるものには魅力を感じない。
    難しいけど、なんとか頑張れば出来て、自分が最後は勝てるものを願っており、ワガママが過ぎる。
  • 常識、みんながそう言っている、普通は・・みたいな単語が嫌い。
    それを自分に当てはめられる事に憤りを感じる。
  • 人に関して言えば、偏見・差別・先入観・肩書きが嫌い
    その人自身を見て判断したい。深く知るまでは心の壁がある方だと思う。逆にその人の良さを見つける事ができれば、深く関わる事は厭わない。
    そういう傷を負った人の方が、人の痛みをより分かっている人が多いと思っている節もある。
  • 本質が好き。自分の目で見た事や、試した事、確かめたことを信じたい。
    20%オフになっているとか、インフルエンサーが推しているとかで判断する人が価値判断するのが嫌い。正解は1つではないのにそういう人を見下してしまう自分がいる。
  • 誰からも優しいと言われるが、自分では本質的には冷たい人間だと思っている。
    相手と衝突してまで、その人に為に、指摘をしたり、アドバイスをしたり、話をしたりはしない。その場が穏便に済んで、自分が負担にならない方を選択する。
    良くない人がいればそっと距離を置くだけ。
  • 子供(自分の子供以外も)が好き。
    子供は損得勘定がない。純粋な欲求と感情がストレートに出るから好き。
    本音と本音で話せるのがいい。
    裏側にある要求や、損得勘定、自分を良く大きく見せたいなど様々な奥底にある感情を察知しやすい性格なので、大人はしんどくなる時がある。当然自分にもそれはあり、それが嫌になる。
  • あがり症。今は克服できる気がしない。
    今の生活で必要性はないが、大勢の前でビシッと話せる人はかっこいいし、憧れがある。問題なく出来ていた時期もあるが、年齢と共に悪化してそのままという感じ
  • やりたい事、叶えたい事を達成する為の努力・目標ではなく、いかに後で楽ができるかで目標を決めてきた。受験・就職がいい例である。
    もっと言うなら自分で決めた気になっていた。世間的、常識的、親の期待など自分以外の物差しで自分の目標を決めていた。
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