自分史ver.2
自分の強み・特性だけにスポットを当てる。
人から止められてもやったこと、自然にやってしまうこと
工作大好き少年(保育園〜小学校低学年)

幼稚園〜小学校時代は友達と遊んだりするのも楽しかったが、「熱中する」という意味では1人遊び、何かを作るのが大好きだった。
子供の頃から自分の世界観みたいなものは同世代の友達よりも持っていたように思う。
原点のブロック
子供の頃、ブロックで好きな乗り物やロボットを作るのが好きでそればっかりやっていた。実物を見てかっこいいなと思ったものがあれば早速家に帰って、ブロックで再現したい欲求に駆られていた。
絵ではなくて断然ブロックだった。
自由度が高く表現できるものより、制限があるブロックの方が楽しかったし、部品を組み合わせを考えるところに面白さを感じてたように思う。
同年代の子供や両親から見れば「どっちでも良くない?」と思われるような細部や左右対象やブロックの色の配置などのこだわりがあった。
むしろその誰も見ないような細かいこだわりの部分が一番好きな所かもしれない。
それは今の自分でも全く変わっておらず、幼少期の自分に激しく共感できる。
空き地
近くのガラクタだらけの空き地で遊ぶのが楽しかった。
ガラクタを解体して部品にして、オリジナルのガラクタを作るみたいな作業をずっとしていた。更地にレンガを組んで自分専用スペースを作って、オリジナル作品を展示していった。
友達が帰っても1人で暗くなる前まで黙々とその作業に没頭していた。
暗くなる前に空き地を見渡すと、処理しきれないくらいの未知のガラクタがたくさんあって、次の日が来るのが待ち遠しく、ワクワクしたのを今でも覚えている。
工作
小学校では図工の時間があった。
通っていた小学校では先生判断で良いと評価された選ばれし作品は、廊下の展示スペースに展示されるというのが恒例だった。
好きだったが絵や版画や粘土などは得意ではなかった。
木で何かを作るとか、身近な材料でロボットを作るとかいう課題になると、熱中して楽しかった。
そういう作品はほぼ、翌朝学校に来ると、廊下に展示されていて嬉しい気持ちになった。
それ以外にも、廃材を使ってピラゴラスイッチ装置を作ったり、ミニ四駆も好きだった。
ミニ四駆は速さとかレースの順位ではなく、ボディに穴を開けて軽量化したり、部品をカスタマイズできるのがたまらなかった。
色々な遊びをしたが、熱中する根っこの部分は同じである。
まとめ
部品や材料を組み合わせて、何かを作るということが好き
さらに深掘りすれば、「作る」という工程そのものよりも、これとこれを合わせてこうすれば・・みたいな閃く瞬間がピークなのかもしれない。
あと完成前の最後のこだわり。
動詞で言うと「厳選する」、「削ぎ落とす」、「調整する」工程も周りからどう言われようが思われようが、やりたい。やってしまう。
もう一つの特性として「一旦壊してゼロにする」と言う行動も他人から見れば、理解されにくい自分の特性だと思う。
完成8割くらいで「なんかちょっと違うと」思えば、その箇所を修正するのではなく、リセットして最初からやり直すという選択をしてしまう。
ブロックであれば全部分解する、文章であれば全部最初から書き直す。
例えばゲームで言うと、初期から気に入って重点的に育成していたキャラクターがいて、後半にそれよりも魅力的なキャラが出てきたとすれば、どんなに物語が進行していてもオープニングからやり直す。
本当に極端で面倒だし、時間の無駄だと頭では思っているのだが、我慢できない。
その労力や無駄な時間よりも、新たなピースで組み合わせを練る工程の方が楽しさが勝ってしまう。
あくまで材料や既にあるものの組み合わせが好きで、強みでもあるが、ゼロから創造したり、全く新しい発想でアイデアを閃いたりするのはあまり得意ではない。
アイデアを考えたりするのは好きだが、あくまで別のものと別のものとの組み合わせが基となっている気がする。
就職活動の自己分析の時もクリエイティブが好きだけど、クリエイティブが得意ではないという自己認識を迷いながら持って今まで来た。
「クリエイティブ」という大きな言葉に囚われすぎて、解像度が低かった。
ルアーフィシング(中学生)

親が釣りが好きだったこともあり、小さい頃から釣りには馴染みがあった。
中学前くらいに従来の釣りのイメージを覆すような、衝撃的な釣りが生まれた。
「ブラックバス」釣りである。
針にエビやミミズを付けるのではなく、「ルアー」で。
待つのではなく「アクション」で食わせる。
鯉やフナではなく「ブラックバス」
これだけで十分すぎるほどに釣り好き中学生の興味を惹きつける要素は揃っていた。
テレビの中の芸能人も当時やっている人が多く、結構なブームになった。
ルアーは魚の形に似せたハードなものから、ワームと呼ばれる、ソフトなものなど、形からアプローチ方法まで数え切れないほどの種類があった。
さらにロッド(竿)とリールとライン(糸)もスタイリッシュかつ、色々なモデルがあり、その無限の組み合わせの中から魚を攻略するというところが、完全に自分のど真ん中でドップリとハマった。
毎週のように釣りに行ったが、釣れた日と釣れなかった日の割合で言えば、10回行って1回釣れれば良いくらいだったと思う。
それでも楽しかった。
釣りの本を読み漁って、釣具屋に入り浸って、戦略を練って、道具を準備している時間だけで十分にワクワクしていた。それで狙い通りに釣れたら最高!そんな感じだった。
動物相手であり、天候、川や池などのフィールドを考えるとまさに無限の組み合わせで難易度もあって飽きることがなかった。
受験の時期になり、自然と足が遠のいてから行かなくなったが、また復活したい趣味の一つである。
テスト勉強=作業(高校時代)

小学校の時の成績は中の上くらいだったと思う。
分からないことが分かったり、できない事ができるようになったりするのは好きで、小学校の授業自体はそれなりに楽しく受けていた。
親の意向で小学校高学年から進学塾に行って受験対策の勉強をするようになって、理解することではなく、暗記する作業になっていった。
塾のテストの点を取るために覚えて、終わったら忘れて次のテスト範囲を覚えるみたいな感じで子供ながらに違和感を持ちながら塾に通っていた。
暗記力はある方だったので塾のテストや模試の点数は良かったが、応用が効かなかったり、理解している感覚が皆無だった。
A判定だった第一志望に落ちた時は周りは「え!?」というリアクションだったが、自分がそんなに落ち込まなかったのはそういう感覚があったからだと今になって思う。
中学に入っても試験勉強=単純作業と思っていたので、とにかく単純作業が嫌いな自分は、ほとんど勉強も宿題もしなかった。
授業中はいつも上の空で、別のことを考えていて時間を潰していた。
中高一貫校だったので高校には最低限上がれる。
大学には流石に行きたいから、最終的にはやる。
だから今じゃない。中学は勉強しない。みたいな固い意志が心の中にあった。
怒られたり、恥をかいたりする事に対してすごく抵抗感があるのに、それでもやらなかったのはそんな想いがあった。
高校になってようやくうっすらと戦略を立てた。
高校2年から国公立と私学コースに分かれる、私学コースに行けば科目を絞って対策ができる。苦手な数学と興味ない世界史は一切勉強しない。高2からやろう。
高校1年の3学期ではほとんど最下位近い成績になっていた。
完全自己流テスト対策はシンプルだった。
テスト範囲の教科書・問題週を全て暗記する。それだけ。
2週間前くらいから予定表を作って完全に覚えるまでひたすら反復する。
テスト当日は朝4時に起きて、最後の確認で2周する。
一夜漬けならぬ「2週間漬け」作戦
作戦はうまくいった。
最下位付近だった成績は学年でもベスト3位に食い込み、維持できるようにはなった。
「よし!うまくいった」というよりは「作戦通りにできた」という感覚だった。
大学受験は過去問から傾向を分析して、テスト対策と同様のことを大学受験対策という範囲を広げて行うだけだった。
無事第一志望の大学に入る事ができた。
周囲から見ている両親や友達から見たら間違いなくヒヤヒヤ、ギリギリに映ると思うが、自分に取っては達成すべくして達成しているという感覚がある。
自分で立てた計画に対しては責任と実行力が発揮できる。
ゴールが見えない
必要性を感じない
ピースが揃っていない
の3つに対しての行動力は全くない。
①、②は当てはまる人も多いと思うが、③は自分の特性かもしれない。
目標に対して全ての材料を揃えれば戦略・計画を立てて意欲的に行動することができる。逆に言うと、出揃うまで動き出せないという短所になっている事を頭に入れておかないといけない。
これは全ての要素を考慮に入れて分析したいという欲求と、考えられるリスクも同時に分析したいという慎重さによるものだと思う。
自分の「慎重」について掘り下げたい
俗に言う慎重さは間違いなく自分にはあり、マイナス面も理解している。
・行動する前にあれこれ考え過ぎて、動けなくなる。
・決断に時間が欲しい(様々な角度から考える時間がたくさん欲しい)
・心から信頼できる人にしか心を開くことはない
・ローリスクローリターンを選択しがち
このマイナス面は表裏一体で裏を返せば、リスクを事前に察知したり、深く検討したりできるといったようにプラス面にもなり得るが、そこではなく意識したいことがある。
「慎重」という言葉から「大胆さ」や「エネルギー」がないという自己評価になってしまいがちだと思う。
大学を留年して5年行ったり、転職を4回して独立したり、世間的にはリスクがあり避けがちな部分も自分の中で納得感があれば周りに何を言われようが進めれる大胆さやパワーはある。
慎重になりなんでも小さくなっている訳ではなく、例えるなら弓を引き絞って力をを溜めて照準が絞れたら一気に矢を放つような側面もあるという事を意識したい
大学時代のバイト

「大学に受かればもう生涯勉強はしなくていい」完全に思っていたので、広い講義室で○年○組という概念がない講義=休んでもOK=大学は全部夏休みという拡大解釈により完全に乗り遅れる。
気がついた時には仲良しグループが形成され、6年間男子校だったので女子を話そうとすると唇がプルプルと震え、頭に描いていたキャンパスライフは早々に打ち砕かれパチンコ・バイトに明け暮れる。
コミュ障になってしまいそうな自分を変える為にも、接客業をやろう!と一念発起し、牛丼チェーンでバイトを始めた。
人も少なくて時給も高い深夜帯がヒマそうでいいなと思ってその時間帯で働くことにした。
働き出して初めて気づいたが、仕事においては時間内を適当に過ごすということができない性格だった。
- 深夜帯でしかできない、大掛かりな作業や清掃はできることは最大限やる。
- 次の時間帯の引き継ぎ時に想定される先の先の仕事までやり尽くす。
- 気づいたことや改善点を引き継ぎノートにびっしり書く。
1つの店舗が自分の提案でどんどん良くなっていくのがすごく楽しかった。
それを続けていると自然と、引き継ぎ時の他のバイトからも感謝される。店長からも仕事がデキる奴と認定され、評価も上がり、またそれがモチベーションになり、良いスパイラルにも入れた。
店舗改善に夢中になっていたが、意外にも一番評価されたのは新人教育だった。
エリアマネージャーやスーパーバイザーと呼ばれる地域を統括する偉い社員の人に何度か面談を設定され、どういう事を考えて教育をしているのかヒアリングを受けたりした。
最後は教育部門の社員にならないかと誘われた。
後に店長から話を聞くと、自分が教育した深夜帯バイトの後輩が他の時間帯に行っても動きが良かったり、8年在籍しているやる気ないフリーターの先輩が熱心に働き出したというのがポイントだったらしい。
新人教育で自分がいつも言っていたことは
「やばくなったら最後は絶対に助けるからとにかくやってみて」
という感じだったと思う。
それだけでは別に普通だと思う。
ここからは現在の自分の考察になる。
大まかなアクションについては以下の通りだ。
- マニュアル全体を理解する
- 作業の本質的な意味・目的を考える。
- 最重要事項・優先順位などを整理する。
例えば 全ての作業は品質と提供スピードを担保する為に組まれている
優先順位はまず客≒商品の品質≒提供スピード>客席の掃除>内側の清掃
という感じ - まずやってもらう
- 自分の考えと自分だったらこう動くというのを伝える
- それについて話し合う
相手のプライドを傷つけず、しっかりメリットも提示して伝えていたという部分もあるとは思う。それがたまたま噛み合ってうまく行ったのだと思う。
言われたことを漫然とやるのは大嫌い
・作業に対して本質的な意味を深くまで掘り下げて考えてやりたい
これに尽きると思う。
その為に、全体像を把握して、センターピンのようなものを探す特性がある。
その過程で常識を疑ったり、当たり前を壊して再構築するのが好きなのだと思う。
今でも「普通はこうする」「みんながこうしているから」「常識でしょ」みたいな言葉に強い抵抗感があるのはこのせいかもしれない。
転職続きの社会人時代

第一志望の夢の旅行会社に入社
旅行が好きという理由で就職活動では旅行会社を志望していた。
就職活動は色々な有名企業の中の話が聞ける唯一のボーナスタイムと思っていたので楽しく、興味がなくても色々な企業の説明会など精力的に回った。
色々みて回った結果やはり、旅行会社楽しそうだなと思い、運よく内定も出たので旅行会社に就職した。
大手旅行会社だったので、同期は全国に100人、研修は東京のホテルに2ヶ月、夕飯は毎晩寿司、USJ・TDRにも研修で無料で行けるみたいな夢のような楽しい時間だった。
研修でも一定の評価を受け、全国トップ営業マンが何名も在籍する大阪の学校向けの修学旅行をメインに扱う支店に配属された。
バリバリの体育会系でまず言い渡されたのは割り当てられた担当校のに名刺とパンフレットをばら撒いて来いというものだった。
学校なので駅近にある訳でもなく、分厚いパンフレットをパンパンに詰めた何十キロもする鞄を抱えて電車と徒歩でまわり、先生の机に置いて挨拶するという事をひたすらやらされた。
クタクタで帰ってきたその足で、鬼上司の前で感想を言わなければならず
「地図の読み方がうまくなり、道も覚えました!」みたいな謎の報告をしていた。笑
とにかく万年帰宅部で体育会系のカケラもない自分は狼の檻に放り込まれた羊のようにだた言われた事を愚直にやっていた。
たまたま通っていた一つの学校の教頭先生が頑張っている姿を見てくれていたのか、声を掛けてくれ話すようになり、運よく同期の中で1番で林間学校の旅行を受注することができた。
鬼上司や支店長からも褒められ、「汗水流して営業したからそれが通じた」と。
いい気分だったが、早くも自分の中では「営業てこんな感じ??これずっとやるの??」という恐ろしい不安が襲ってきた。
愚直にやってきた裏側では、
「先生の机の上にパンフと名刺置くのは仕事の邪魔でしかないやろ」
「先週も配ったのにまた今週も来たらウザイんじゃね?」
「いい所ですよって提案してる林間学校の行き先、俺行ったことないけどね!」
「これ意味ある!?!?」
みたいな思いを抱えながら毎日を過ごしていた。
褒められる結果を早くには残したけど、再現性もなく、モヤモヤを抱えながらなんとなくやる気だけが下降していった。
次第に慣れて営業もサボることも多くなり、面白さも攻略法も分からなくなっていき、どんどん闇に堕ちて行った。
一部のトップ営業マンを除く、同期や年の近い先輩も疲弊して同じ境遇だったので人間関係は楽しかった。だからとにかく1日を夜まで乗り切りという事にフォーカスし、サボって逃げて夜だけは飲みに行って愚痴を言ってという具合にダメ営業マンへとまっしぐらだった。
バイトの時にやった、センターピンを見つけて注力するみたいな事は一切できなかった。
「自分の強み」みたいな考えもなく、勝ちパターンから外れた所ずっといたと思う。
「こうすればうまく行きそうだけどな」とアイデアが浮かんでも、ここまで結果を出していない自分が何を言っても聞き入れてもらえないし、無理だという感じで負のループに深く深く沈んで行って、いつか限界が来たら終わろうみたいなマインドだった。
約5年間の超低空飛行の末、夢の旅行会社では何も成し遂げる事はなく退職することとなった。
意味はないが、今の自分ならどうするか?考えてみたい。
修学旅行のテーマとして「普段の学校生活とは異なる場所へ行き、集団生活を通して見聞を広め、様々な経験を積むこと」のような表テーマがある。
しかし、決定権者=先生であり≒保護者でもある。
真のニーズはトラブルになりそうな要素を極限まで潰し、先生を負担を減らし、安心させ、保護者からのクレームもないようにしたいだと思う。
教師も人間である。
具体的には
・他校との接触は絶対に避けたい。
・1つの宿に全員は泊まるのではなくクラス毎の分宿にして管理を簡単にしたい
・1日クラス全体で集まる会場が欲しい
・学習的要素のある施設と体験的要素のあるものを1つづ入れたい。
これを全てを満たした施設があったのだが、ここに自分達がまず熟知するまで滞在してどんな質問でも即座に答えれるようする。
施設の人とガッチリ組んで、一緒にプレゼンに来てもらえれば、かなりの結果が残せたのではないかと思う。
自分だけの勝ちパターンができて仕事も楽しく続けれたとは思う。
当時の自分の途中まではアイデアが出たが、実行に移すやる気も立場でもなかった。
就職支援の人材コーディネーターに転職
とにかく営業から逃げたかった。
前職の経験から営業イコール根性・人間関係とかそういう間違ったイメージになってしまい、営業以外で求人があった会社に飛びついた。
仕事内容的には本来向いてそうな領域だったと思う。
通訳と翻訳の仕事に特化した職業紹介だったので、その人自身の性格や素養を見るという以外に英語スキルと英語を使った仕事能力を見極めないといけなかった。
英語スキルがない自分にはその部分ができなかったのでテストの点のみという浅い部分だけでしか判断できなかった。
それ以前に、お気に入りの女の子にだけ優しく、男には説教ばかりという漫画みたいな役員がおり、その役員の機嫌取りに中間管理職は仕事の半分以上の労力を費やしているという環境だった。
入社した時の周りの先輩は一年で半分以上が入れ替わり、引き継ぎばかりして仕事どころではなかった。
人が辞めすぎてるので、中途採用募集の稟議書を持って行った時に「今日は星占いが最下位だったから承認しない」と言われて心が折れたのを通り越して面白くて、翌月に辞めた。
こんな会社でも唯一活躍できた仕事がある。
パナソニックの電池事業の合併に伴い、アメリカの独占禁止法に抵触する可能性があるので、その資料を翻訳するという大プロジェクトがあった。
内容はよく分からないが、100名超の翻訳者を3ヶ月間派遣するというものだった。
100名もの翻訳者の働く場所の割り振りやシフトや管理をどうするか会社としても初めて試みだった。
ざっくりこんなこんな感じで行きましょうという自分の案が採用されて、その調整を3ヶ月行ったが大きくトラブル起きることもなく、3ヶ月無事成功することができた。
最初の1ヶ月だけはパズルのような感覚で熱中して仕事ができた。
食品メーカーのルート営業に転職
ちょっと自分を見つめ直し、短絡的だが、やっぱりある程度裁量を持ってやれる仕事の方がいいとなり、また営業に戻った。
今度は旅行やサービスなどの無形物ではなく、有形物であればシンプルでいいかもしれないと自分なりの考えもあり、しかも勤務地が広島だったのも大きかった。
心機一転環境もガラッと変えてやり直したかった。
初めての1人暮らしも環境の変化も楽しいことだらけで、前職までに比べれば仕事内容もそこまでハードではなかったので居心地が良かった。
こちらは食品メーカーで末端のお客さんには直接取引はしないので、得意先は問屋さんとなる。問屋さんの先から外食チェーンや小規模な飲食店、スーパーの惣菜や学校給食などがあった。
色々端折って言えば、
・営業しなくても一定の発注と売り上げがある。
・学校給食の売上げ比率が多いが、価格競争力がありメインの売上げとなる
・クレーム処理と入札書類さえやっておけば、営業成績の差が出にくい。
・人事評価は数字よりも内容・役員の見る日報が重要
こんな特徴だった。
1年くらいで大体の流れを掴んで、上記の特徴もなんとなく把握できた。
普通にやっていても完全に単調な仕事になってしまうので、自分独自の取組みをしようという思いがあった。旅行会社の時のように闇に落ちていくのだけはなんとしても避けたかった。
その中で自分が目をつけたのは病院・介護食だった。
歴史のある会社だったが、システムに強い役員がおり、分析ツールが充実していた。
学校給食を除いた、売上げ伸び率が多い分野は病院食を扱っている問屋が多かったので人口的な観点から見ても学校より、病院に注力する方が長期的には良いのではないかという仮説を立てた。
この仮説はうまく行って、固定の得意先だけで何年も続いていた営業所にいくつもの新規先の開拓が出来たり、中四国の医療食の偉い人とも繋がることもでき、社長と会食もセッティングもできた。
新しい情報を日報に盛り込んで、役員が満足する読み応えのある日報を心掛けていた笑
そういうこともあって自分の評価は急上昇、4年間いた広島の地方営業所から大阪に異動させられることになった。ゲームの攻略もひと段落して感覚で飽きてきそうだったので渡りに船であった。
大阪営業所に行ってそれなりに仕事したりサボったりしながら、次の取組を模索していたが、同じ医療食の取組をしようという気にはなれなかった。
それを期待されていたであろうし、それをすれば何かしらの結果は出せたかもしれなかったが、同じパターンではなく、違うパターンで何かをやりたかった。
戦略を深く考えるようになると、自分は本質的なことに向かうという癖があるとこの頃初めて気づいた。
よくビジネス書などに「サラリーマンでも経営者目線を持て」のように書かれていたが、経営者目線過ぎて、「これとあれを完全に止めて、こういう提案資料をたくさん作ったり、発注担当が注文しやすいような仕組みやシステムを作る方が全体の売上げが上がるのではないか」と」など平社員のクセに根本的な改善案を妄想していた。
自分の中になんとなくやってみたいアイデアというか本質はこれではないかという考えがありながら、数字や新商品の会議などではもっと根本的な話をしたいけれど出来ずに、燻った何かを吐き出せないまま発言でもできずに終わるというのが続いた。
周りを巻き込みそれを推し進める実行力も熱量も自分には足らなかった。
旅行会社の時とは違い仕事が辛いとかそういうことではなく、上司・社内へのアピールや表面上の仕事や、無駄な時間を過ごすことが心底嫌で、会社員はそもそも向いてないんじゃないかと思い始めた。
そうした頃、社内で営業マン対象のコーチング講師を招いての3日間のコーチング合宿という初めての試みが行われた。
営業マン全員でどうすれば変われるか、売上げが上がるかを話し合うというものだったので、ついに自分の考えを全て吐き出した。
営業所内でもその案が採用され、自分がアウトプットしたものでこれからの行動計画が作られ、コーチングの講師も内容をとても評価してくれ、社長もノリノリだった。
それだけだった。熱量は日を追うごとに薄れ、今まで通りの方が楽だし、給料も変わらないしという空気が漂っていた。
それは当然のことで、全員が変わりたい訳ではないと最初から思っていたくらいだった。
7年間勤めた会社もようやく決着がついたなという感覚だった。
医療系予備校の企画部
もう自分は独立・起業しかないと内心思っていた。
ただ、その勇気もお金もなかったので、繋ぎのような気持ちで最後の転職をした。
やったことのない職種で面白ければ続くかもという望みもあったが、もう入社した瞬間から起業の決心がつけば、辞めるだろうという確信を持った自分でもよく分からない転職だった。
ルーティン作業も半分くらいあったが、自分のメイン業務としては過去アンケートや大量のデータを分析して、選ばれる本当の目的や強み、ニーズの仮説を立てて次の方向性や戦略を考えるような仕事だった。
間違いなく好きでどちらかというと得意な仕事だった。
その仕事が一定の評価された時に気づいた。
面接で1回しかあった事のない社長に褒められても別に嬉しくないし、そもそも何故いつも評価される側なのか、なんの愛着もないこの会社の経営戦略を考えて、自分は一体何をしているんだろうという虚無感に襲われた。
完全に覚悟が決まった瞬間だった。
新卒で就職して「自分は会社員は絶対向いていない」という確信に到達するまで15年の歳月が過ぎていた。
自分の好き・得意なパターン
- 全体像を把握し俯瞰する
- 本質的・潜在的なニーズを見つける
- 常識・従来のやり方からゼロベースでアプローチ方法を考える
- ある程度の結果を出す
- 飽きて次の興味へ
仕事の特性
- 結果を出すまでの攻略法を考えたり、新しい知識が得られる過程が好き
- 自分の裁量で進めたい
- 組織に属して無駄なことに時間・労力を絶対に使いたくない
- できる限り身軽でありたい(臨機応変・少数精鋭を好む)
- 飽きる。単縦作業、先が分かりきったことをやり続けるのは無理
親の会社を継ぐ(現在進行)

子供の頃から仕事を手伝わされていたので絶対に仕事は継がないと心に決めていたが、親父が癌になったり、色々あってタイミングも重なり、家業を継ぐこととなった。
時間は掛かったが、会社員は向いていないという確信は間違ってなかったと断言できる。
今までの得意なパターンを誰にお伺いを立てることもなく、実践して、そのまま結果が返ってくる。今までとは比べ物にならない自由な環境に一定の満足はある。
でもまだまだ新しい経験をしたい。もっと自由に制約なくやりたいことをしたい。